季節の記憶/保坂和志

鎌倉を舞台に、ある親子とその周辺の人々の日常を描く小説。

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)

 

 数年前に鎌倉に引っ越してきた主人公の中野と息子の圭太は、近所に住む松井さんと美沙ちゃんと親しくしながら暮らしている。そんな彼らの普通の日々の生活が美しい鎌倉の風景の描写と共に描かれている。

作中で描かれているのは、基本的に、主人公親子と松井さん、美沙ちゃんが一緒に夕食を食べたり、散歩したりといった普通の日常の様子である。特別に大きな事件が起こったりと言った展開はなく、ただゆらゆらと鎌倉の時間は流れていく。

そんな日常の中で湧き上がる些細な疑問から人について考えたりするシーンもいくつかあり、その中で印象に残ったのは、文字と文字ができる以前に抱いていた感情の考察のシーンである。そこでは、文字ができてから人間は感情を文字で抽象化されてしまっていて、それ以前の感情を季節の移り目の微妙な空気の変化にふと思い出したりするといったようなことが述べられる。そこを読んでいて、あぁ、子供時代に秋口や初夏に決まって抱く感覚をなかなか言葉に表すことができないのはそういう理由だったのかなどと妙に納得しながら読むことができた。

 

藻屑蟹/赤松利市

震災後の原発周辺での除染作業、そこに集まる人と金を描く小説。

藻屑蟹 (徳間文庫)

藻屑蟹 (徳間文庫)

 

 

大きな収入を求めて震災後の原発周辺での除染作業への参加を決める主人公、そこで彼を取り巻く人々や金、作業員として多額の収入を得る事で生じる主人公の疑問や気持ちの変化を、元除染作業員の著者が、震災後の原発の事実を交えて描いている。

当初は、ただ漠然と大金を得る事を夢見ていただけの主人公が、実際に大金を得る立場に至る過程で、金で人生を狂わせられる友人の姿や、金ではなく人のために原発の作業を行う人間の姿を目の当たりにする。そのことによって様々な葛藤に苛まれ、だんだんと物事に対する価値観や当初の気持ちにも変化が訪れるようになる。

純粋に物語としてとても面白いのだけれど、それだけではなくて、全てが真実かどうかはさておき、実際に震災後の原発を取り巻く闇の部分がノンフィクションで描かれていて一気に読んでしまった。やはり実際に現場で作業していた経験を持つ著者が書く内容だとどうしても説得力がある。

特に、過剰な補償金による避難民と受け入れ先の地元民との分断構造の話などは目から鱗で読み入ってしまった。一見すると震災被害者を救うためにある政策が、実は裏に潜む大きな目的を達成するための手段で、結果的に震災被害者が犠牲になっているという内容は大きな驚きだったし、現実に起こっている事だとしたらとても悲惨な事だと思う。

この著者の作品は初めて読んだのだけれど、圧倒的な筆力に、久しぶりにページを捲る手が止まらないという読書ができた。他にも作品を執筆しているようなので、著者の他作品も読んでいきたい。

星の王子さま/サン=テグジュペリ

極上のファンタジーだけれど、風刺や寓話も含まれていて大人も子供も楽しめる小説。 

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 

他の惑星から地球を訪れた星の王子さま(以下「王子」)と、砂漠に不時着したパイロットの主人公が出会う物語。

物語前半は主人公の幼少期と王子が地球に来るまでの過程を描いている。

王子は地球にくるまでに、いくつかの星を訪れてそこに住む人達と話をする。やがて、流れ流れて地球へと到着して主人公と出会う。

この物語のテーマには「物事は表面ではなく中身を見ることが大事」というものがある。王子はまさにこのテーマを体現する存在として描かれている。

それぞれの星には、権力者や経営者、学者など現代社会に実際に存在する人々がモチーフになっているであろうキャラクターが暮らしているのだけれど、彼らは逆に物事の表面しか見ることができない象徴として描かれている。王子は初めは興味を持って彼らと会話するのだけれど、次第に自分と真逆の価値観を持つ存在だと気が付いて、会話に飽きて次の星に行ってしまう。

ここらへんのシーンが現代社会への風刺になっていて面白かった。

王子が地球に到着して主人公と出会ってからは、じゃあ大事な中身とは何かということが描かれていて、純粋なファンタジーとしても寓話としても楽しめる内容になっている。

作品の内容自体はもちろん、河野万里子さんの日本語訳とあとがきも素晴らしくて、特にあとがきに書いてある考察を読むと、この物語に秘められている深い意味を知ることができて、より作品を楽しむことができて良かった。

自殺/末井昭

ダイナマイト自殺により母親を失った著者が自殺について書いたエッセイ 。

自殺

自殺

 

 

仰々しいタイトルの本書だけれど、内容は堅苦しく自殺を考えるようなものではなく、自殺を肯定も否定もせずに、自殺者には寄り添い、生きるのが辛い人達には楽に生きられるようなヒントを与えてくれる内容だった。

幼少期に母親がダイナマイトで自殺するという強烈な経験を持つ著者の失敗だらけの自分の人生、それでも自分は自殺しようとは思わないといった考え、自殺に関係する活動をする人たちへのインタビューといったものが書かれている。

印象に残った話が二つある。一つは月乃光司さんへのインタビュー。

この人は思春期に醜形恐怖症になって人とうまく関われなくなったのをキッカケに、うつ病アルコール依存症に陥ったそうなんだけど、この人がインタビューで自分の半生を語っていて、共感できる所が多数あった。へたれだから自殺できないとか。あと、上手く生きられないのは欲望の裏返しだからっていう考えはやたら腑に落ちて、少しでも楽に生きて行くための重要なヒントのような気がした。

もう一つは聖書の内容から考える生き方についての話。

ここの話の中で、著者が傲慢な自意識は捨てて、相手の中に自分自身を見ることといった内容を書いているんだけれど、自分にとっては特に重要なことのように感じた。

個人的な体験/大江健三郎

脳障害を持って生まれてきた子供を巡る主人公の葛藤を描いた小説。

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

  • 作者:大江 健三郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1981/02/27
  • メディア: ペーパーバック
 

生まれてきた自分の赤ん坊の脳に障害があり、そのことで主人公は様々な葛藤を強いられる事になる。

赤ん坊の対応を巡って主人公が経験する様々な苦悩が描かれている。

赤ん坊が自分の人生の足枷になるから、衰弱死を装って殺してしまおうと考えていたり、目の前の問題を投げ出して、退廃的な生活に溺れてしまう主人公の様子が、精密な心理描写とともに描かれていて話に引き込まれた。

この小説は、なんというか人間の道徳観とか倫理観といったものが良い意味でも悪い意味でも生々しく描かれていて、読んでいて後ろめたい気持ちになる事も多いのだけれど、不思議とどんどん読み進めることができた。

何もかも憂鬱な夜に/中村文則

 自分の宿命を意識してもがき苦しむ事とそれに対する救いを描く小説。

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

幼くして親に捨てられ施設で育った刑務官が、自分の姿と本来あるべき宿命的な自分の姿の不一致に対する葛藤を描く。

拘置所で働く刑務官として犯罪者達を管理していく中で、自分の生い立ちや両親の事を考えると、雑居房や独居房の中に収容されている彼らのような姿が、本来の自分のあるべき姿なのではないかという疑問と、それに抗う様子が描かれている。

 

高校時代の友人から送られてくるノートを読むシーンが印象に残った。

そのノートに描かれた内容が、何者にもなれない自分や何も手に入れられない自分の焦りや不満を曝け出すような内容なのだけれど、真に迫るものがあった。

 

主人公がある犯罪者に対して、人間と命のあり方について説くシーンも印象的だった。

元々一つだった生命が分裂して、動物や人間が生まれたのだから、命というものは最初の生命から地続きで続いている一つだけで、人間と命は切り離して考えるべきだという考えを説いていた。

この考え方が、宿命的なものに悩みを抱く人に対する救いのように感じられて、これは救いのような小説だなと思った。

ことり/小川洋子

 真理を見抜く周縁の人々を照らす小説。

ことり (朝日文庫)

ことり (朝日文庫)

 

小鳥の言葉を理解し自ら編み出した言葉を話す兄と、唯一その言葉を理解することができる弟の暮らしが描かれている。

兄の話す言葉は、弟以外、肉親である両親を含む周りの全ての人間には理解できない。

 

周囲とはほとんど関われず、小鳥の鳴き声を聴きながらささやかに暮らす兄弟のひっそりとした生活は、社会の一般的な暮らしからすれば異質なものだと思う。しかし、社会に生きる一般的な人と違って、兄弟は自分たちを偽って良く見せたりすることもせずに、ただただ小鳥の鳴き声に耳を傾けて、その言葉を理解し物事の真理を見抜いて生きている。

表面には見えない、気づかれずに見過ごされたり、都合のいいように理解されて間違った使われ方をされる物を、ただ自分達だけが理解している事で起こる喜びや葛藤の様子を見て、人の暮らしに重要なことは何かということを考えさせられた。

 

教室の隅にいる目立たないが物事の真理を見抜いている、しかし、それが周りには理解されずに結果的に孤立してしまうような人の実直な生き方を後押しするような小説だなと感じた。